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国内外旅行&散策


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ロシア旅行 2011/03/31-04/05

ロシア6日目 モスクワからの帰途で一日を取られる。機内食は他の航空会社よりもシンプルではあったがおいしいものだった。私はアルコールは飲まないが、機内でのアルコールは有料で、ほとんどの人が注文をせず、ソフトドリンクで過ごしていた。
 ロシアは世界で初めて社会主義国を作り、今でも政党で共産党が一番多い国である。社会主義国家としての中国は10回以上、ベトナムも2回訪れている。日本での革新運動に力をいれた若い頃から、ロシアの社会性は興味があったので、数年前から旅行価格を気にしていたが、今回安かったので喜んで出かけた。

社会性は暗いイメージを持っていたが、中国ほど規制は少なく、人々は明るく、気楽に接することが出来た。バスや地下鉄も無数に走り、地下鉄路線案内では日本や韓国に劣るが、切符の買い方も距離制ではなく回数制なので、フランスなどより簡単であった。Wi-fiなどの通信手段も、パスワードの入力なしで気楽に使用できるなど進んでいた。現地ガイドの女性は、北方四島はロシアの土地であることを力説していたのには、さもあらんと思った。
 接したロシア人は、誰も親切で聞くとトイレなどは連れていってくれる人もいた。地下鉄で方向確認を聴いても、丁寧に教えてくれるなど、外国人かぶれはあまりない印象を受けた。ただ、地図の読み方を知らない人も多く、数人で間違いを教えてもらったが、警官は正確であった。
 簡単な英語を全く理解しない人が多いが、ボデイランゲージはこの国でも有効であった。今回の旅行で東方正教をかいま見て、残るはヒンズー教だけになった。次回はインドのヒンズー教を勉強に行きたい。


ロシア5日目 最後は16時までの自由行動である。ホテルが市内からは遠い距離にあるので、誰でもが自由行動の過ごし方を模索していたが、結局添乗員のあとに付いて行ったひとがほとんどであった。私は外国での自由時間はレンタカーや乗り物で移動し目的地をいつも独力で行く。今回はロシアということもあり、事前に地下鉄路線図、乗り方、見学場所を相当の時間を割いて準備した。
 それでも心配で、前日の夜にバスの乗り方や切符の買い方など下見調査した。添乗員も心配なのであろう、翌日行くところの下見に出かけた。英語のできる彼も「10人以上も初めて連れていくので下見をしないと不安だ」と言っていた。ひとり参加の大学生もバスの乗り方などを下見していた。
 バスや地下鉄を乗り継いで、クレムリン近辺や骨董店が並ぶと言われたアルバート通りなどを、何人ものロシア人に行き先の確認を求めながら、当初の予定通り回ることが出来た。アルバート通りに行く途中で、俺らしくなく簡単な道を間違えて、目的地より離れてしまった。マックに入って昼飯を食べながら、wi-fiが使えたので、iphonの地図及び磁石で現在地と目的地を確認でき、放射道路を環状道路に切り替え、一時間のロスで難なくたどり着いた。

添乗員が連れているメンバーとも途中で会ったりしたが、それだけモスクワは、他の外国と違って一般観光客がみる場所が少ないと言える。
バスはどこまででも25ルーブル、地下鉄も28ルーブルだった。
 地下鉄はクレムリンを中心として環状線と放射線が8本もあった。乗降客は世界で2番目らしいが、通勤時間に乗ったために、超満員であった。深度が深くスピードのあるエスカレーターの乗り口が、ネックになって長い渋滞だった。地下なのにステンドグラスで綺麗な駅もあったが、撮影禁止と注意されていたので、逮捕されるのを警戒して写真を隠し撮りしたが、とれた写真は廃棄対象だった。
 タクシーは観光地にはあったが、街の中では殆ど見かけないほど少なかったのにはなぜだろう?写真左はモスクワ必携の地下鉄路線図(クリックするとPDF) 右は少ないタクシー


ロシア4日目 モスクワ市内を一望できるレーニンヶ丘(今は雀ヶ丘)を見たあと、広さを期待した赤の広場は、コンコルド広場や天安門広場と比較して小さかったのでがっかりした。国立歴史博物館の赤、葱坊主の色彩豊かな聖ワシリー寺院と淡い灰色がかった黄色のグム百貨店及びクレムリンの赤色コンストラストが、ロシアらしいデザインに新鮮さを感じた。
 大統領府があるクレムリンの内部は、やたらと警備が厳重で、防寒ユニホームを着た警察官が多い割りに、立ち入り禁止の境界が不鮮明で、私たちを含む何人もの外国人が笛で注意を受けた。大型の大砲が陳列されている前の、黄色と白の大統領府は落ち着いていた。クレムリン内部の武器庫は、名前のイメージと違って、ロシア皇帝への外国からのプレゼントが主な陳列で、豪華絢爛さを味わった。
 ホテル近所のスーパーやショッピングセンターを歩いて見たが、ロシアらしい特徴もなく、日本のどこにでもある風景であった。食料品は安いが、被服は高い印象であった。店内で写真を撮っている最中、俺も撮れと要求されるなど、非常に人なつっこい人種と受けた。写真左はクレムリン内の警官 写真右はローカルスーパー


ロシア3日目 サンクトペテルブルグの郊外にあるエカテリーナ宮殿の外観は、エルミタージュ美術館と同じく、ブルーと白及び金色デザインであった。建物の横幅が325mもあり、雪の中で良いコントラストであった。
 建物内の各種応接間は、金色で豪華さがまばゆいばかりであった。ロシアは金色がお好みなのであろうが、他にもグリーンや赤の間もありカラーコーディネートが光った。写真撮影が禁止の琥珀の間は、金色の装飾と琥珀色が混ざって豪華さの極めであった。出口近くでシャッターを切ったら、見ていた他の人も次から次へと撮影をしていた。

午後はモスクワに移動で、途中寄った土産物屋のメインはどこもマトリシュカ人形が多く、他は種類がなく単純であった。外国旅行では必ず購入をし、スプーンディスプレイに追加するスプーンを各種買った。
 安い旅行なので期待はしていないが食べ物は、じゃがいもとパンがメインで、上手くもないがまずくもないといった特徴を持たずあっさりしていた。レストランのバイキング朝食では、果物の種類が少ないのが残念であった。
 モスクワのirishotelもwi-fiが使えたが、2ヶ月前に行ったフランスはどこもwi-fiが思うにまかせなかった。ハンバーグ店や珈琲店でもwi-fiがフリーで使えロシアのほうが進んでいた。写真左はエルミタージュ美術館の広間 写真右は撮影禁止の琥珀の間出口


ロシア2日目 世界遺産のサンクト・ペテルプルク歴史地区と関連建造物群観光の一日である。ネヴァ川左岸の元老院広場(現在のデカプリスト広場)にある、ロシア正教の総本山である聖イサク寺院(ドーム高さが105m)とロシア皇帝ピョートル一世の青銅の騎士像は、感動をよばない建造物であった。
 血の上の救世主教会は、まばゆい色彩で写真映えする建物であり、内部壁面はモザイク画で埋め尽くされており、これはすごいという声があちこちから聞こえるほど感動を覚えた。東方正教の教会にはステンドグラスがない、十字架の形が違う、十字の切り方が違うことなどカトリックやプロテスタントと違う点を発見した。

世界三大美術館の一つであるエルミタ-ジュ美術館は、ブルーと白及び金色のロシアらしい建物に綺麗を連発した。内部は入口の大使の階段の金色デザインに豪華さを感じた。
 展示品はロシアのものがなくヨーロッパ各国の絵画を見たが、広すぎて疲れてしまい、座る場所を探すのに苦労して絵画どころではなかった。もうひとつの三大美術館であるルーブルは10年ほど前に訪問したとき、一人で2日間観たので、そちらのほうが良かった。やはり美術館は集団行動で観るのは良くないと確認をした。
 街の建物はイメージがヨーロッパと同じたたずまいであった。人々は防寒着が多く、特に各種の防寒帽デザインに興味を持ち、一つを買ってしまった。札幌と同じく建物内では半袖の方も多かった。
 車は昼間でもライト点灯が一般的で、雪道を走るためにいつまでも洗車をしないらしく、泥まみれでナンバーも確認できない車も多くあった。


ロシア1日目 今回のツアーは39人の募集に地震の影響か15人と少ない参加で、添乗員も管理が楽だし、私たちにとっても何かと良いと思った。
 東日本大震災の最中なので、不謹慎や非国民の声も感じるが、10万円という安さであり、震災前の払込と言うこともあり出かけた。
 計画停電の影響もあるので、朝一番の電車で行き、成田到着が集合時間に2時間も早い8時であった。モスクワ空港での入国検査では、数人の係員による日本人だけの放射能暴露検査があった。チェルノブイリ原発の経験もあり、情報不足で過剰対応とは思うが、敏感な対応に驚いた。後日聞いたが韓国でも放射能検査をしているそうだ。写真は放射能検査を受けている

モスクワ経由でサンクトペテルブルグのホテルに着いたのが23時で移動時間は16時間かかった。機内ではipadで「小公女」と「家なき子」を途中まで読んで時間を有効に使った。そういえば、2ヶ月前のフランス機内でもipadで「レ・ミゼラブル」を読んだ。
 ペトロスポーツホテルは郊外ではあるが、wi-fiが使えてさっそくニュースやtwitterをチェクできた。モスクワでの放射能検査もtwitterでつぶやいた。


フランス旅行 11/02/07-08

出国時に保険の加入で悩んだが入らず何事も起こらず無事に、パリドゴール空港からフランクフルト経由で帰途についた。フランクフルトからは時差の関係で寝ていたが、爆睡後に着陸前の朝食時間に起こされた。
 飛行時間が11時間もあるのに、行きの無理して起きていたのと比較して、数時間しか経過していないような感じで退屈を感じなかった。

フランス旅行は2回目だが総論としては、石の建築とキリスト文化の奥深さに歴史を実感し、初めての女房が喜んでくれた事に満足した。訪問したところはどこも有名なところではあるが、モンサンミッシェルやシャンボール城など初めての訪問地に長い歴史と大きさに感動を覚えた。しかし、ホテルでのwi-fiはどこも使えきれなかったのは不満であった。それよりも8日間で自由行動を除いた全食事付きで99,000円という安さに満足をした旅行であった。
 帰国してから旅行案内のメールを見ていたら、4月にロシア6日間10万円というのがあったので、安いと思いさっそく申し込んでしまった。

フランス6日目 パリ郊外と市内 自由行動日なので、ベルサイユ宮殿へ出かけた。 トラム(路面電車)の乗り方を学習していったのだが、自動販売機が故障していたため、ドキドキの無賃乗車をしてしまった。RER(郊外電車)は何とかクリアして、9時のベルサイユ宮殿会館にちょうど間に合った。(写真左は地下鉄車内)
 宮殿は第一日曜の無料開放の影響で超満員だった。借りた案内機器を使わずに絵画鑑賞と宮殿内の豪華さを満喫した。 裏庭の広さと雄大さに、私は2回目なので感動はないが、女房はフランスに来て良かったとご満悦であり、トリアノンまで脚を伸ばしたが、中には入れなかった。
 そのまま歩いてマルシェまで行き、りんごやパンおよびオリーブを購入し昼食とした。(写真左から二つ目)

RERでエッフェル塔まで行ったが、最上階で眺める時間は15分くらいなのに、チケット購入やエレベーターなど行列が1時間半近くかかった。行列管理のシステムがずさんで、日本であればクレームの山になるところだが、フランス人は待つことや管理下手に対して甘い国であることを学んだ。最上階での案内板に日本までの距離が出ていた(写真の右から二番目)
 道路12本が交差するロータリーの真ん中に立つ凱旋門は、写真で見ると小さいが、そばに行ってみると大きい。凱旋門が2回目の私もその大きさに再び圧倒された。日曜日にかかわらずシャンゼリゼ通りは開店の店が多く、女房はブランドの値引きに夢中で、1時間半もつきあった。ルイビトンの本店の隣はトヨタの販売店があり、日本では見られない車が三台もあった。(写真右)
 イビスポルトオルレアンホテルに帰り着いたのが21時30分であったが、自由行動の楽しい1日が終わった。


フランス5日目 モンサンミッシェル ホテル発が八時なのだが、外は暗い。八時前についていた街灯が、八時でいっせいに消灯になるので、さらに暗くなるところが面白いお国柄である。日没が遅いのかと思ったが、夕方六時には暗くなったので、日照時間が日本より二時間近く短いのであった。フランス人は日光浴が好きだと聞いていたし、ニースでは水着姿の女性が日光を浴びていたが、日照時間に関係しているのかなあ?
 これから 266kmを4時間かけて、モンサンミッシェルまで行くのだが、帰りはパリまで370kmで5時間かかることから、運転手は二人体制で、労働条件を大事にするフランスの権利意識の高さを感じた。

一度は訪ねて見たいと思っていたモンサンミッシェル修道院では、700年に作られた戦う教会として築かれたモンサンミッシェル内外を歩いた。モンサンミッシェルは、外からの眺め(写真左)が一番で、内部は街の旧市街の光景(写真右)に似て、お土産やがたくさん並んでいる。
 教会はフランス革命時代の破壊や、革命政府の牢獄に使われていた関係で、調度品や芸術がなく、他の寺院と比較して豪華さ(写真中)はまったくない。ここは、内部より外部からの写真がよく似合うところである。
 ここだけではないが道中に、落葉された枯れ木に、やく30cmくらいで鳥の巣に似ている緑のボールが、点々と付いているのが散見される。ガイドは宿り木だと教えてくれた。宿り木は辞書によると、鳥の糞内の種がその木に定着し、宿主から養分を貰って成長するそうだが、面白い景色である。


フランス4日目 ブールジュ地方 プールジュへ370km5時間のバス旅で、二回の休憩をとったのだが、それはフランスの運転手の労働協約で、二時間走ったら30分の休憩を取ることが義務付けられている。あと、30分で食事場所に着くのに、30分の休憩には驚いた。さすがにと、フランス総同盟の雇用条件の素晴らしさを実感した。
 世界遺産ブールジュのノートルダム寺院大聖堂は、ゴチック建築の大きさや豪華さ及びステンドグラスの綺麗さに改めて感動をした。過去にイタリアフレンチェの大聖堂やパリノートルダム寺院にも豪華さに圧倒されたが、それに勝るとも劣らない出来栄えであった。

141kmを2時間走って、ロワール地方の世界遺産のシャンボール城 は、レオナルドダビンチが設計をした、周囲30kmの壁に囲まれた広大な土地に、部屋数440もある大きさの城が出現をした。城と言っても、要塞ではなく、娯楽のためなので、尖塔がいっぱいあり、外壁の彫刻も多く、当時は城自慢に湧いたことであろう。


フランス3日目 アヴィニオン地方 世界遺産のアヴィニオン歴史地区にある法王庁とアヴィニオン橋を、感動を覚えないまま見学。
その後、世界遺産のポン・デュ・ガールの三層の水道橋は、紀元前に作られたが、今でも見やすい位置に、保存良く存在していることに、これぞ世界遺産と感動をした。
 3時間30分かけてリヨンへ。世界遺産のフルヴイエールの丘に立つノートルダム寺院は、生活感があり質素なイスラムの教会と比較して、豪華絢爛なキリスト教会は貴族の宗教とも思えなくはない。
食事は朝のコンチネンタルスタイルに満足するが、昼食と夜食は今一歩の感がある。でも、99,000円の安いツアーなので諦めがつく。

 

フランス2日目 コートダジュール地方 コートダジュール地方の観光地で、エズ市内にある興味がない香水工場と地中海を見下ろす丘を一時間ほど見学。アランドロンの太陽がいっぱいを感じさせる南仏の明るい太陽を十分に浴びた。
 世界で二番目に小さい国のモナコで大公宮殿を見学。大公銃騎兵中隊衛兵の姿を撮影した。所得税のない国なので、海外の富裕層が数多く在住し、ヨットハーバーには多数のヨットやボートが停泊し、イメージを醸し出している。日本からは仲田英利や伊達公子が在住している風光明媚な観光地であった。(写真左)

ニース市のプロムナード・デ・ザングレの海岸で散歩と写真撮影を 30分ほどした。
昼食後、アルルへ 251Km3時間30分かけて到着。強い風と寒さで、持ってきたダウンが多いに役だった。アルルのゴッホの跳ね橋は、高知のはりまや橋と同じくポツンとあり、観光客は誰もいなかった。(写真右)
 その後、世界遺産の1世紀に建設された円形闘技場外周を感動のないまま見学した。ゴッホが自分の耳を切り取り、入院した病院や、そこで描いた絵などを見る。
宿泊はアヴィニオンのノボテルホテルだが、昨日と同じく、wi-fiが使えずがっくり。


フランス1日目 移動 ツアーカウンターで渡された窓側切符を11時間の長旅なので、機内の移動が気兼ねなくできるように通路側に変更してもらった。ところが、機内は空いていて隣がいない状態で、ゆったりしたムードで、心に余裕が生まれた。
 ニースに着くのは夜になるので、寝ないでおこうと、 ipadにビクトルユーゴのレ・ミゼラブルをインストールし、250頁ほど読む。驚いたのは、ジャンバルジャンに銀の食器を与えた牧師の性格を語るのに200頁もの長さにわたることで、フランス文学の上級に位置させたある資料に、長さの点で了解した。
ニースのアポジアホテルに着いたのは8時を超え、やっと休息になったけど、wi-fiが使えずがっくり。

フランス前泊  次の日の集合時間が早いので、前泊にアパホテルをとった。そこは京成成田駅前にあり、新築なので部屋は狭いけど綺麗で、大浴場もあり、新聞は持ち帰り自由、空港までのシャトルバス運行などのサービスが付いて、3,200円なのに驚いた。

定年退職後9年でホテル価格も大きく変わったことを実感した。
 時間をとって成田山新勝寺見学に行った。昔行ったことはあるが、イメージは残っていなかった。さすが、年始詣りで、日本二位だけあって参道の店舗や、広い境内に建物は大きく、長野の善光寺よりも立派で有った。奥の平和大塔のそばに献書記念碑があり、私のおじさんが刻まれていたのも奇遇であった。


信州旅行 10/10/18~20

今年は親戚の都合があり海外旅行に行けないので2回目の国内旅行に出かけました。
 1日目は軽井沢にある会員リゾートの一泊2食で500円の体験宿泊をしました。期待はしていませんでしたが、軽井沢の紅葉は全くありませんでした。また、旧軽商店街では店の入れ替えが目立ち、蜂蜜の店舗がたくさん並んでいました。
 2日目は長野市の水野美術館、長野市清水寺、善光寺を巡りました。その途中の市場では、大豊作だが数万円もする松茸が、無造作にたくさん売られ、地元のお客同士の松茸論議に参加をして秋の風物詩を楽しみました。(左写真)

3日目は姥捨駅から重要文化財の棚田、りんごの購入で松本市の三郷、紅葉を見ようと標高2,000mの美ヶ原まで行ってみました。紅葉は標高1,500mを境に見頃でした。頂上は富士山がよく見えて下は雲海でした(写真右)


新潟方面を散策 10/07/17~19

新潟県寺泊に親戚の見舞いがてら、寺泊と十日町をあちこち寄ってきた。十日町の清津峡は自然を破壊から守るつもりか、トンネル内に四つある開口部から流れと岸壁を観光できるようになっている。狭い開口部からなので迫力を感じないので、珍しい作りだが、景観は感激が湧かない。


十日町のブナ林は複数あるが、その一つの美人林を訪ねた。さすがブナ林だけ合って足元はふかふかで一周30分ほどの道や、鳥の鳴き声も多数聞こえ、屈託があるわけではないが、しばしの癒しを味わった。


山古志や十日町に棚田がたくさんあるが、ここは十日町松代の星峠の棚田である。もう稲がいっぱいで水が見えないので棚田イメージは湧かない。
中国の龍勝棚田に爆雨の中行ったことがあるが、そことの比較では規模が小さい気がする。


山古志で景観の良い棚田を地元の人に聞いた時、小千谷闘牛を趣味に持つ方だったので、闘牛を見せてもらうことになった。
 この闘牛は大下号という名前で、連戦連勝らしい。目方は一トンもあるが、優しい目はご主人と同じであった。それにしてもあそこの袋が大きかったのには女房もびっくり。


地震被害から6年を経過した山古志の復興ぶりを見に行った。被害地域はほとんど新しい家や道路で畑や田圃も整備をされていた。その中で一番被害の大きかった地域は一部被害状況が見られるようになっていた。
 そこには、大きな字で「みなさんありがとうございました」の住民の感謝があり感激をした。下左は埋没した家屋の一部、下右の写真は記念碑である。


寺泊の夕陽は数十年前に見たことがあり、その大きさに感動したことを覚えている。そこで夕方2時間前から海岸で待っていた。
 あいにく、当日は曇っており太陽も小さかったが、夕陽の影響で空の雲と晴れ間がいろいろ変わり、冬にはよく見られるが夏は珍しい夕景を楽しんだ。


エジプト・トルコ13日間 2009年11月

13日目はエジプシャンバザールで買い物を済ませて、11時間の帰国の途につくが、私なりのトルコを紹介します。
トルコは人口密度が日本の25%だから、地方で360度地平線を見て、大きく広い感覚を味わった。料理は食糧自給率が100%を超えているが、ハムやソーセージおよびチーズ、豊富なパンも味は今一歩だったし、ホテルでは果物もみかんとリンゴしかなかった。しかし、イチジクやあんずなどのセミドライフルーツは美味しかった。

人間性は気取ったところがなく、大雑把でいつも明るく誰にでも気楽に声をかけるような明るさが気に入った。住民の住まいはよくわからないが、カラフルな建築中の多さが目についた。ホテルは排水や浴室がどこも不安であったが、通信環境はWIFIが使えてiphoneが活躍でき、日本の情報に困らなかった。進歩とインフラの遅れが同居している発展途上国を感じた。
 GDPが13位と現地ガイドは自慢していたが、比較してもしょうがないが日本の7分の一なので、豊かさはこれからでしょう。
モスクは乱立なぐらいあり、どんな田舎でも地方でも尖塔が目につくほど、イスラム教の浸透性は認識できた。現地ガイドは、どんな村でも小中学校と病院および教会はあると自慢していたが、教会については実感できた。

旅は非日常性なので不健康の面もあるが、それを超越するのが知的文化的吸収の魅力でしょう。今回もそれを堪能しましたが、13日間はちょっと疲れる旅であった。
 それにしても15万円という安い料金で、トルコとエジプトの一端を垣間見ることが出来、関係者の皆さん、ありがとうございました。


エジプト・トルコ12日目 はクルージング。下左の写真はモスクの偉大さが明確に見られる、真ん中はフランスとイギリスによって建造された第一ボスフォラス橋と若者のシンボルモスク、右はコンスタチノーブル攻略のために4ヶ月で築いた城壁

   


エジプト・トルコ11日目 今回の旅行メインの一つであるブルーモスクで、6本の尖塔が目立つ。内部はブルーの感覚は強くなかったが、フィレンツェやサンマルコのキリスト教大聖堂と肩を並べるのではないかと思うほどの大きさだが、ステンドグラスの豪華さではイタリアに軍配があがる。でも、イスラムの豪華さと建築技術に感嘆した。

 


下は1500年前にキリスト教会として建てられ、500年前にイスラム教会になった4本尖塔のアヤソフィア。
下左はモスクの赤い外観、中は内部に6個ある木製の大円盤が、ここはイスラムだぞと訴えるほど目についた。
右はメッカの方を向いた礼拝用の壁窪 

   


下はイスタンブール全体を見晴らす高台に500年前に建てられたトプカプ宮殿。展示場にあった大きなスプーンダイヤモンドは見たが、ハレムはあきらめた。下左は質素な入り口外観、中は庭園内部、右はトプカプ宮殿から見たモスク群と住宅で、反対側には眼下に金閣湾が見えた。

   


エジプト・トルコ10日目 紀元前の有名なトロイ戦争の物語の地であるが、作られた木馬は子供だましでお粗末。この奥に9つの時代の都市層が重なり合って複雑な地形の遺跡がある世界遺産だが、歴史家には興味があっても、私には見るに値しない貧弱であった。


イスタンブールに戻り、夕食後に私と女房だけで出かけた市場。魚を夜の8時頃に販売中だが客は少なかった。花屋には着色しているのか?紫や青のバラもあった。野菜のキャベツは日本の4倍も大きかった。大雑把な国柄を味わえた楽しいひととき。

   


エジプト・トルコ09日目 トルコの乗用車は生産国が不明だったが、観光バスの半数以上が三菱製には驚いた。イスタンブールをのぞいて、高速道路じゃないのに100kmを超すスピードで走る。自転車も走っていないし歩道もないのが普通で、今日も200km走ってエフェイスへ到着。ここの見学が終わるとまた250km走る。

エフェイスは紀元前の遺跡で、ここにも、円形の劇場や図書館があった。紀元前にローマ、アレクサンドリアに次いで3番目に人口が多い都市で、国際会議も開かれたと説明された。凄いね、日本だったら一つ一つ厳重に管理されているだろうに、遺跡が乱雑に管理されている大雑把な国なのだろう。
人も大雑把で細かいことに頓着がなく、まつげが長く目が大きいのが特徴で笑顔が明るい。誰にでも気楽に声をかけ、親しみやすかった。私も負けずにボデイランゲージで接した。

  


 

エジプト・トルコ08日目 前日は360度地平線の大平原(初めて見た)を走り、今日は8時から3時まで高原風景を突っ走った。
パムッカレは1800年前に栄えたヒエラポリス遺跡と石灰棚である。
同行の50名は石灰棚で遊ぶが、私は20分登ってヒエラポリス劇場を一人行った。外国人のみで日本人は一人も居ず、文化の興味の違いを感じた。


  

パムッカレの街をを見下ろす石灰棚は炭酸カルシューム分が水中の酸素と結合して長さ3kmに渡って凝固した真っ白な世界を、みなさんは靴を脱いで歩いていた。中国の九寨溝も有名らしいが、比較したらどうなのだろう?


エジプト・トルコ06-07日目 世界遺産のカッパドキアは、数億年前の噴火で火山灰と溶岩が重なり、硬度が異なる砂岩が何千年もかけて、堆積と浸食を重ねて出来たキノコの奇岩群である。
人が今でも住んでいるところもあるらしい。イスラムに追われたキリスト教信者が洞窟に教会を造り、鮮やかなフレスコ画もあった。

   


エジプト・トルコ05日目 前日の深夜からエジプト、イスタンブール、アンカラと14時間の移動。なにしろトルコ西部と中部を一周して世界遺産を見るので、合計移動距離は3000kmらしい。
写真はアンカラ駅だが、ヨーロッパに見る駅の造りと一緒なので、トルコはヨーロッパとアジアの接点だと認識できる。


写真はトルコの歴史を塗り替えた軍人の廟でアタチュルク(トルコの父の意味)と呼ばれる。ちょうど衛兵の交代時間で交代行事を見ることができた。
 この隣は世界的に有名なアナトリア文明博物館だが、陳列のヒッタイト王国時代の骸骨しか記憶に残っていない。どうも、私は博物館に興味が薄いらしい。


エジプト・トルコ04日目 木造建築のすばらしい寺社や、ステンドグラスと建物規模がすばらしいヨーローッパのキリスト教会に惚れている私は、イスラムモスクへの関心も高い。無数の尖塔目印と立派な建築に、さすがイスラムと感激をした。
 エジプト考古学博物館では、紀元前の遺物をたくさん見たが、印象に残ったものは余りないので、私の興味が低いのでしょう。


自由行動中に女房とタクシーでバザールへ行き、アジア各地にある市場と同じく狭い通路と呼び込みで、賑わいを見せていた。女房は買い物に夢中だが、私は市場景色と値引き合戦を楽しんだ。いつもの通りだが、私は今回の旅行で買い物は皆無であった。


エジプト・トルコ03日目 ピラミッドも観光用ラクダも砂漠の中にあるイメージだが、なんと住宅街の隣にあるのだった。警官もラクダに乗り警戒をしていた。
市内のナイル川は、川幅が隅田川よりちょっと広いくらいで、モーゼが川を赤く染めた広いイメージを変えざるを得なかった。
比較するわけではないが、交通は警笛の嵐と車線無視で、10年以上前の上海を思い出した。

     


エジプト・トルコ02日目 今年はイタリアに行く予定で、安い企画を探していたが見つからず、安いエジプト・トルコ企画が出たので、変更して9月に申し込みをして行ってきた。
 2日目にイスタンブールからエジプトに移動のため、トルコ航空は一時間遅れで離陸した。上昇中にエンジンのカバーが外れ、一部が飛んだと、私の反対側の乗客が騒ぎ出した。
 それから10分くらい経ってから、エンジン不調のため引き返す案内があり、無事着陸し、乗客は拍手喝采であった。
写真の左は着陸後に機内からみた左翼エンジンでカバーがめくれているのがわかる。右は乗降後のエンジン写真で、カバーが無くなっていた。

着陸後は報道機関が来ていて、乗客に取材を求めていたが、素早い報道機関にちょっと意外であった。数時間待たされ、機体を変えて出発したが、予定は消化せず移動だけで一日過ぎ、日本の旅行会社からは見舞金が一人10ドルずつ支給された。

  


9800円の香港 2009年5月

新型インフルエンザで旅行のキャンセルが続き、低価格で売り出したので飛びついたが、顰蹙(ひんしゅく)を買うので、知人や近所には言わずに出かけた。
 右の写真は新型インフルエンザのチラシで香港空港ではカラー、街では白黒の注意パンフレットを配布していたが、マスクをしている人はほとんどいず、香港では危険は感じなかったし、日本では過剰反応でなにを騒いでいるのかと思われる。
 2泊3日なので実質1日の香港だが、落語家と思われるほどのガイドの説明を聞きながらバスで観光地を8ヶ所ほど回り、昼食も出るなど格安でも楽しい一日であった。夕方からフリーだったので、地下鉄で移動しあちこちのショッピングや景色を堪能した。

私は香港は数回行ったことがある。そんな香港の風景は知っている方は多いと思われるが、道路や歩道に大きくはみ出している写真のような看板の設置条件をガイドから聞いた。
 看板設置の基礎はビルの壁に取り付けるが、壁の取り付け位置にある持ち主に家賃を払う事を条件にして取り付けとるの事。香港は人口密度が高すぎて、超超超金持ち以外は自宅が無く、マンションも高いことは有名だが、家賃を払ってくれるのはうれしいことでしょう。

      


久しぶりの上高地 2008年11月

山に行っている頃は、上高地からの出発が多く、よく行ってましたが、久しぶりの上高地でした。河童橋から梓川の徳沢までの右岸と左岸および大正池をゆっくり散策した。

     


中国桂林 2008年6月

中国は仕事で10回以上、個人旅行で3回訪れているが、初めての桂林。海外は何十回と行っているが、桂林で初めて財布を置き忘れて、免許証・現金・クレジットカードを紛失し、女房に笑われた。

有名な漓江の川下り、案内のパンフレットの方が夢をかき立てるかなと思ったが、墨絵の世界を4時間楽しんだ。何回もきたことのある人のはなしでは「霧が山にかぶって今までの最高」と言っていた。
 今回の旅行は6日間の旅でした。わたしは個人旅行がメインだが、今回はめずらしく24名のツアーで、結構たくさんの人と話が出来て楽しいものであった。


翌日は龍勝の棚田見物、40分かけて山へ登って棚田を見るのだが、同行のガイドの話だと「まれに見る爆雨」、最初から行かない人が30%もいる中で女房とがんばった。カッパを購入して持参の傘をさしても、購入したカッパが首に大きな穴がいていて上半身までびしゃびしゃだった。

バスの中で上半身に新聞紙を巻いて保温した棚田は日本の棚田規模と違って立派でしたが、カメラがびしゃびしゃになるほどの爆雨で写真がその立派さを表していない。


   

  

この絵はなんだかわからないと思いますが、桂林の鍾乳洞内の盧笛岩で、鍾乳洞をライトで照らして、前の水面に反射しています。
私は山口県の秋吉台鍾乳洞に行って、その立派さに驚 いたのですが、それと比較しますと秋吉台はまだ赤ちゃん、桂林は規模や歴史から見て成熟した大人で驚愕した光景でした。

大きな岩につまずいてひっくり返るアクシデントがあった。七つ星公園でもパンダの前にカメラのレンズカバーを落としてしまい、拾うのにパンダを人参で動かしたり、職員が長い時間かかって確保した。これでトラブルメーカーの悪名をいただいた。


冬の北陸 2007年11月

 

京都に行く予定であったが、同行者が腰をおかしくして急遽近い北陸に変更になった。岐阜県白川郷、金沢兼六公園、富山黒部トロッコなどだが、上田の無言館では、戦争の厳しさを実感した。
初日の白川郷は初めてだが、外国人、特にアジア圏の多いのには驚いた。集落の民泊だったが、そこでも半数が外国人で、夕食などはインターナショナルディナーになった。

日本人では写真を撮る人が多く、見晴台ではカメラが一杯でした。雪景色では写真映えがするだろうなと思った。
お土産品はほとんどが高山産だったのにはがっかりした。


2日目は金沢兼六園で女房は初めてだが、私は出張の合間に見たので3回目になる。公園としては、特別良いというわけでは無いが、金沢はあまり見るところが無くここだけが金沢で光っている場所だと、前から思っている。

白川スーパー林道も雪で通過できず、金沢では雨に降られてゆっくり見物も出来ず、金沢城址公園も予定に入っていたが、いけなかった。
 金沢駅前のファミリーレストランで昼食を取り、宿泊先の宇奈月温泉に向かうが、満足感を味わえなかった金沢であった。


3日目は黒部峡谷鉄道で欅平までの紅葉見物の予定だが、標高が低いのにもかかわらず、もう赤が無くなり黄色ばっかりではあったが、乗客達と一緒に「きれい」の連発でした。

10年前に長野県側から黒四ダム経由で剣岳を女房と登山したことがあり、日本海側からアプローチするコースで人気のあるトロッコ電車に乗ってみたかったのだ。
 15年ほど前も長野県側から白馬山も登山したが、日本海側から白馬を目指すのは大変だと理解できた。


 

久しぶりの北穂高 2007年8月

山は若い頃から50歳くらいまでアルプスを中心に初夏から秋にかけて何回も、テントを担いで行った。体力に自信を失ってから久しぶりなので、楽な北穂高を楽しんだ。

 


秩父札所のいいとこ取り 2006年12月

秩父の札所は34カ所ありますが、山寺を3カ所、一日かけて女房と行ってきました。写真左は26番の岩井堂に登る階段で、奥の修験堂まで1時間半を費やし静寂を楽しんだ。写真真ん中は31番の観音院にたくさんある石物群の一つ、ここは2時間もつぶし岩肌の芸術を楽しんだ。写真右は32番の般若山法性寺の般若、ここでは奥の院まで往復1時間の静寂を楽しんだ。
   


2回目の韓国は38度線6emsp;2006年7月

今回は現地で38度線ツアーに参加をして板門店を見学に行った。いろいろ注意事項があったのだが、忘れて兵士に怒鳴られた。命は保証しない旨の誓約書に署名をさせられ、緊張化のある38度線であった。
フリーの旅行なので地下鉄と足でソウルを、朝の8時から夜の10時頃まで、観光地や政治的ポイントを歩き、毎日クタクタの連続だった。

ソウルの特徴の一つは地下鉄に感激をした。網の目のように張り巡らされた地下鉄は東京以上であり、車内の広さは東京メトロより40cm以上広く、その利用のしやすさは言葉の通じない私でさえ自由に往来でき、便利さは抜群であった。また、儒教の影響か若者の高齢者に対する親切さは強く私は地下鉄で席を譲られぱなっしであった。

左は青瓦台、写真の右は板門店の北朝鮮兵士、中は世界遺産の宗廟隣にある大きな人民広場で将棋や碁に熱中する高年グループが100組以上楽しんでいた。日本には無い風景だが良い環境であった。

   


松本のからす城 2006年1月

私たちの自治会で松本の自治会に用事があり、その帰りに立ち寄った松本城

   


息子の結婚式でタヒチ島へ2005年9月

1人息子が人並みにタヒチで結婚をした。場所は物価の高い国で有名なタヒチでした。当人達より一足早く現地に行きレンタカーでタヒチとモーレア島の旅をした。タヒチのムードを表しているのが、ホテルからの眺望でした。
 空と海の色が絵の具のようでしたが、ホテルの従業員は裸足であり、タヒチに着た~という感じでした。
飛行機は100%新婚カップルで、寒い機内があったかい。私たち老いぼれ夫婦は反対に目立つ


キャプテンクックが金星を観測したビーナス岬には沢山の海水浴客はいないが、トップレスが沢山いた。私は初めて見たのでどきどきだが、相手は平気でびっくり。ボトムレスはいなかった。
写真はビーナス岬ビューポイントだが、その良さがトップレスに気を取られて出ていない。


タヒチ島のゴーギャン美術館を楽しみにしていたが、期待が多すぎた。たしかに遺物はあるが、絵が全て複製で、見るのに30分とかからないほど展示物が少なかった。
 それより、近くにある植物園は人も多く、結婚式の息子を空港まで迎えに行く仕事がある私たちは、時間が無くてはいれなかった。


タヒチの結婚ってそんなに魅力的?水上バンガローでの結婚式後、家族だけのレセプション。エメラルドグリーンと水上バンガローを背景にご満悦の当人達


結婚を祝ってくれたダンサー演奏者とダンサーは、本当に自分たちの家族が結婚式を迎えたような笑顔がすてきでした。
やっぱり、タヒチでの結婚式や新婚旅行は当人にとっては価値観が高いかも!


 タヒチでの結婚式で日本と一番違うのは、結婚式後、記念撮影の時間を豊富に用意されたことでした。浜辺、椰子、芝生と場所を変え、たっぷり40分はあった。これも当人にとっては良かったかも!
 私も親を忘れて300枚ほど撮ったが、まばゆい明るさと近くの陰の明暗に慣れず、実際に見られるものは少なかった。


モーレア島に二つある展望台の一つでトアテアの展望台は空港の西にある。眼下にホテルの水上バンガロが広がり、タヒチ島を望む位置にあり、レンタカーの旅行者がチラホラ立ち寄った。
モーレア島は一周40kmしかないので、レンタカーで廻っても4時間くらいで、全容がわかるそうだが、その通りで時間をつぶすのに苦労した。市場で果物を毎日買った

ここで食事情報、ホテルの朝食は4400円、夕食は高額なので、数回のホテル食事以外は、市場やカルフールで食材を購入し、昼は町中で夜はホテルで食べた。
 1メートルのフランスパン50円、バナナとパパイヤ(日本の20%)及びマンゴーやトマトの食生活で美味しいし安かった。おかげで持病の便秘が改善した。ルロットの屋台村も沢山食べて二人で1500円であった。
地方はどこでもバナナとマンゴーを売っていて果物には満足をした。


黒真珠を探す妻女性の頭の中はおみやげが抜けないらしく、マルシェ市場やバイマーショピングセンターを何回も訪問し黒真珠探し。二つ購入したが、バイマーではなくマルシェで購入した。
簡単なおみやげはタヒチ石けんを50個も購入し、帰途のトランクの重さにあきれた。


タヒチ総論

海外旅行や海外出張で20数カ国50都市くらいを訪問しているので相対的にタヒチを見ることが出来る。一言で言うと、30歳周辺の新婚カップルには良いと言えるが、一般旅行客や若年新婚者には効果対費用で見ると、費用がバランスに欠ける。

新婚旅行者には静かで邪魔が少なく二人でゆっくり出来る。しかし、一般観光客は経済的ゆとりがあり、タヒチが好きなら別だが、海以外の観光地で満足したところは皆無で、美術館や博物館(タヒチ博物館も日本のローカル以下)も価値が低く、ショッピングの店も少なく、おそらくリピート客は少ないのではないか?街はインドネシア、海は沖縄を想像して頂ければいいかな?料理や果物は種類は少ないが、美味しかった。
 私は結構経済観念が強いが、二人で80万円以上かかり、ヨーロッパに2回行けるほどでアッパー過ぎる価格であった。外国に行くとどこでも感じるが、人間は穏やかで優しかった。この総論は旅行会社には怒られそうです。ゴメン


観光での沖縄は初めて 2002年1月

仕事で沖縄周辺は3回ほど行ったが、観光では初めてで、空港でレンタカーを借り名所旧跡はほとんど回った。沖縄で食べるゴーヤチャンプルとサーターアンダキはおいしかった。1月なのに桜が咲いているのはさすが沖縄!

   


年末に暖かい静岡方面へ 2000年12月

富士の原生花園、白糸の滝、久能山東照宮、駿府城、羽衣の松などを回ってきた。

   


2回目のベトナム 2000年7月

若い頃はベトナム戦反対の活動をしたこともあり、戦争関係を中心に回った。北ベトナムがサイゴンの本拠地を攻略した場所や戦争記念のある展示場を十分堪能したり、メコンデルタを船で散策をした。
&emsp:\; びっくりしたことにガイドがついていたのだが、8月に2回目で行ったときには、そのガイドにばったりホテルの前で出会い、ガイドもびっくりしていた。

2回目も仕事先の好意で、戦争中サイゴンに掘った地下トンネルにも連れて行ってもらった。でも、ベトナムでは2回とも下痢になった。アジアは20回近く行っているが、食あたりは初めてであった。

   


5回目のタイ 2000年7月

すべて仕事ですが、タイ南部を中心に出張していました。今回は女房とアユタヤを訪問し、歴史を堪能しました。また、仏教国らしいムードがいっぱいでした。

    


2回目のベニス 2000年5月

仕事だがイタリアには3回行き、ベニスは2回行った。サンマルコ広場は余裕の広さだが、ヨーロッパどこへ行っても広場の大きいのが特徴である。